2010年12月27日

昭和時代の映画館 追憶

私は高校時代まで十勝清水町に住んでいました。1950年(昭和25年)頃、当時2、3歳で良く覚えていませんが、ある日私がいなくなり大慌てで探したところ、私の店の前にあった映画館の入口に小さな下駄が置かれていて、ちゃっかり中に入っていたそうです。その頃からたびたび映画館が遊び場になっていたようです。
子供の頃よく見たのは時代劇が中心で、「笛吹童子」、「紅孔雀」、「百面童子」など第1部、第2部と続き物が多く、中村錦之介、東千代之介、高千穂ちづる、脇役に月形龍之介、吉田義夫などが出演していました。
また、「鞍馬天狗」では嵐寛寿郎、「怪傑黒頭巾」の大友柳太朗、「遠山の金さん」「七つの顔」の片岡千恵蔵、「旗本退屈男」の市川右太衛門、「新吾十番勝負」の大川橋蔵など時代劇俳優が一番活躍していた時代です。
すべてモノクロ映画で、清水町などの地方映画館には封切りされてしばらく後にやってくるので、雨降りのような傷ついたフィルムで切れたりや上映中にフィルムが燃えることもあり、時々中断することもありました。
子供にとってはとてもワクワクする映画ばかりで、主役が後ろから刀で切られそうになると、皆一斉に「危ない!」の声がかかります。とても懐かしい時代です。

その後、中学・高校生になると映画はもっぱら帯広へ。
帯広では「日劇」で洋画を中心に見ていました。この頃になるとモノクロ映画からカラー映画に変わってきます。今ではもう聞かれませんが、当時は「総天然色」映画といっていました。
上映スクリーンも次第に大きくなり、70ミリ映画(縦横比2.22対1)やシネマスコープ(縦横比2.35対1)のような横長の映画で迫力のある画面が主流になります。
最初はスタンダードサイズの「ニュース映画」が上映されますが、本編になるとスクリーンのカーテンが開けられ広がります。
入場者の収容数も今のシネコンよりはずっと多いような気がします。

1966年(昭和41年)に大学に入学し、東京へ。
新宿歌舞伎町のコマ劇場周辺の映画街によく行きましたが、その規模の大きさには驚きました。特に「ミラノ座」にはビックリ!1000人以上が一度に見られます。スクリーンも今までの倍くらいの大きさ。


新宿ミラノ座HP
ネットで調べると現在は1288席もあり、縦8.85メートル、横20.2メートルでバレーボールコートに匹敵する大きさです。
これが映画だ!と感動したことを覚えています。
さらに驚いたのは、東京銀座にあった「テアトル東京」です。

写真は「ありし日のテアトル東京(BIGSTONEさんのブログ)から」。館内の写真や詳しい説明が掲載されています。

スーパーシネラマという新しい方式の映画館で、3台の映写機を使用し、湾曲したスクリーンに映し出します。座席は見やすいようにリクライニングになっていました。
最初に見たのは「2001年宇宙の旅」です。その後にスティーブ・マックイーンの「グランプリ」を見ましたがスクリーンの大きさだけではなく、4CHのサウンドもすごいの一言。
1981年(昭和56年)「天国の門」を最後に閉館し、その数日後に火災に遭い残念ながら焼失したそうです。

映画はテレビやビデオ・DVDレンタルなどに押されて観客数が減少。映画館は徐々に閉館が増えてきます。
そして、今はシネコンの時代に!
昔の大画面を覚えている世代にとっては、少し迫力に欠けるかな?
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2010年12月26日

昭和時代の映画館 その3

西2条南9丁目周辺の映画街から少し離れて、西1条南9丁目には主に東宝映画を上映していた「帯広劇場(通称 帯劇)」がありました。

女が階段を上る時(高峰秀子・仲代達矢)、わが愛(有馬稲子・佐分利信)上映中
(上写真は帯広市百年記念館所蔵写真 昭和35年当時)
昭和初期には「栄楽座」という名前で畳席でしたが、1939年(昭和14年)に椅子席の映画館に変わりました(上野敏郎・十勝とボクと映画ートボトボある記 参考
この栄楽座という名前から、この通りを「栄通り」と呼ぶようになりました。
映画だけではなく実演興業も行われていて、「美空ひばり」が来た時は大騒ぎだったそうです。

西2条南8丁目には「スバル座」がありました。
洋画中心の上映館でちょっと大人向きの映画がよく掛かっていました。

騎兵隊(ジョン・ウエイン)上映中
(上写真は帯広市百年記念館所蔵写真 昭和35年当時)

西1条南4丁目西仲通には「ミマス映画劇場」がありました。
邦画の上映館でしたが、後に成人向きの映画やストリップなどの実演も掛かるようになりました。

(上写真は帯広市百年記念館所蔵写真 昭和35年当時)

1955年(昭和30年)頃の帯広市内地図を見ると当時の街並みが良くわかります。
駅前から南9丁目の地図
南10丁目から南6丁目の地図
南5丁目から南2丁目の地図
西2条南9丁目現在の北洋ビルの場所には映画の上映案内看板もありました。

1959年(昭和34年)の写真です。「東劇」と書かれている映画館は「大映」の前身です。

その他には、西1条南10丁目(現在ホテルパコ付近)に「帯広東映」、西1条南9丁目に「プリンス劇場」(現在「シネとかちプリンス劇場」)がありましたが、残念ながら当時の写真がありません。どなたかお持ちの方がいらっしゃいましたらご提供をお願いします。

昭和時代の映画館 完。
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2010年12月25日

昭和時代の映画館 その2

西2条南9丁目の西仲通り、通称「都通り」にも3軒の映画館がありました。
「キネマ館」の裏には「大映」があり、

その向かい側には洋画の上映館「日劇」がありました。私が一番よく見に行っていた映画館です。
1959年制作のアメリカ映画(MGM映画提供)ケイリー・グラント主演の「北北西に進路を取れ」上映中。

最初の頃は邦画を上映していたそうで、
1958年(昭和33年)木下恵介監督、田中絹代主演の「楢山節考」と「坊ちゃん」の看板が掛かっています。

(上写真は帯広市百年記念館所蔵)
この隣には「東映オリオン劇場」があり、時代劇が中心の上映館です。
1959年(昭和34年)中村賀津雄主演「血太郎ひとり雲」、高倉健・佐久間良子の「万年太郎」を上映中。

(上写真は帯広市百年記念館所蔵)
この都通りの10丁目は、当時花柳界として賑わっていて、夜のネオンも大変綺麗な通りでした。
1958年(昭和33年)の写真ですが、スライドフィルムで撮した貴重な写真です。

昭和時代の映画館 その3に続く。
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2010年12月24日

昭和時代の映画館 その1

昭和30年頃の帯広中心部を覚えていますか?
当時の帯広市は十勝の中での大都会であり、帯広駅には根室本線を中心に広尾線、士幌線、池北線が乗り入れ、たくさんの乗降客であふれかえっていました。
また、帯広大通駅から軽便鉄道が稲田・川西へと走る十勝鉄道(現在「とてっぽ通」として残る)もあり、交通の要所でありました。
地方に住む若者にとっての楽しみは、映画、レコード(オイカワレコード店)、本(田村書店)、藤丸デパートなどがあり、
特に映画の封切館は帯広にしかなく朝早くから汽車に乗って帯広へ行く人たちも多かったように思います。
西2条9丁目周辺には、藤丸百貨店南角に「テアトル銀映」

その2軒隣には日活映画の「キネマ館」がありました。

キネマ館の入口前に「猿小屋」があり、子供達だけではなく大人にも人気があり、映画よりも猿を見に来るお客さんも多かったようです。

昭和時代の映画館 その2 へ続く
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2010年12月13日

帯広駅前周辺にホテル乱立、競争激化!

最近1〜2年の間に、帯広駅前を中心にビジネスホテルが3軒建設され、ホテル業界の競争が一段と激しくなっています。
帯広駅には南口に「ホテル日航ノースランド帯広」が隣接しています。北口から帯広中心部を見渡すと、ずらりとホテルが並んでいます。

右手側から、「コンフォートホテル帯広」「ホテルムサシ」「帯広ワシントンホテル」

帯広駅正面右手には、「ふく井ホテル」「ホテルパコ帯広」「十勝ガーデンズホテル」

上の写真の正面右手には、「リッチモンドホテル帯広駅前」「ホテルルートイン帯広駅前」「東横イン帯広駅前」
一番左手に「ホテルヒーロー」が並んでいます。
その他、中心部には「ホテル十勝イン」「ホテルみのや」「ホテルパコ3」があり、
そして2010年4月には

「天然温泉白樺の湯ドーミーイン帯広」がオープンしました。
狭い範囲にこれだけのホテルがあるのは全国的にも珍しいのではないかと思います。
高速道路道東道が無料化され、観光客の宿泊が増えるのではと見込まれていましたが、以外と期待はずれの感があり、思うような集客に繋がっていないという声が聞かれます。
宿泊料金についても、競争が激しく、かなり安い料金設定を提示しているところが増えてきています。

このような状況の中で、ついに古くから帯広駅前で営業していた「ホテルヒーロー」が12月30日を最後に営業を停止し、閉鎖することになりました。
帯広駅が1905年(明治38年)に開業。当時11軒の旅館で「帯広旅人宿泊所組合」(後の帯広旅館組合)が発足し、「ホテルヒーロー」は1907年(明治47年)に「北海館」という和室12室を備えた新館として建築された旅館からスタートしたそうです。
帯広の歴史を長く見守ってきた老舗のホテルが、ここで幕を閉じることになりとても残念です。
posted by pcfact at 16:04| Comment(1) | TrackBack(0) | まちづくり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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