2009年05月25日

タウンスケープ、歩きたくなる街並み その2

 帯広の街は京都のように碁盤の目のようになっていてきれいな街だねと言われますが、京都とは全くたたずまいが違います。同じ碁盤状でも細い道が入り組んでいたり、とにかく歴史が違います。
 帯広は道路幅が広く、火防線と呼ばれる斜めの道路を配置し、災害に強い区画として街を形成し、行政主導で作られたようです。歴史的にも明治24年頃(1891)下帯広村を起点として十勝原野の区画が始まってから、まだ120年ほどの歴史しかありません。
 明治25年(1892)、今の柏葉高校付近に郵便局や帯広最初の行政機関として役場が開設され、水光園付近にあった晩成社との間に河港の街が発建し、行政的都市の誕生となったそうです。
 以来、電信通り、大通を経て、西2条通りへとまちの中心部が移っていきますが、その要因は官庁の建物の位置や駅などの交通アクセスの利便性が密接に関わっていて、人の流れや賑わいも移動していきました。
 賑わうところには、商業も発達します。商店街は電信通りや大通から始まり、やがて人の流れの変化とともに西2条通りへ、そして大通と西2条を挟むように広小路が栄えるようになります。
 広小路の道路上にはずらっと夜店が張り付き、碁盤の目の区画の間では、本通りと中通りを貫く廉売やマーケットがたくさんあり、数多くのお店が軒を並べていました。
 そして、帯広駅は広尾線、士幌線、十勝鉄道などの起点となり、農産物や木材などが集まる流通の拠点として重要な役割を担っていました。
 昭和30年頃(1955)、大勢の人が帯広にやってきて、街に人があふれ一番賑やかだった頃の風景です。決してきれいな街並みではなかったけれど、とても晴れやかでわくわくする街でした。


posted by pcfact at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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