2009年06月17日

買い物難民について

 読売新聞のくらしのコーナーに「買い物難民」というテーマで、8回の連載記事が掲載されていました。高齢者が地元で買い物に行ける店が各地で激減しているというものです。
 全国の小売業の事業者数が1982年(昭和57年)の172万ヶ所をピークに減り続け、この10年で現在114万ヶ所と約2割も減ったと書かれていました。その原因は、商店の後継者不足や地方で車社会が進み、郊外に大型店が増えて中心街が空洞化したと分析しています。
 2000年(平成12年)に大型店の出店を規制していた大店法(大規模小売店舗法)が廃止されてから、郊外などへの大型店の進出が加速し、中心街の衰退が始まります。2007年(平成19年)に中心街活性化し衰退を食い止めようと大型店の郊外出店を規制する改正都市計画法が施行されましたが、すでに時は遅く、駅前などの商店街が壊滅状態になっている地域は少なくないということです。
 帯広はどうでしょう?まさにこの状況と同じになっていませんか?帯広での大型店の歴史は、中心部から始まります。1970年(昭和45年)西2条南9丁目キネマ館の場所に映画館を併設したいせきビルが建設され、キーテナントに長崎屋が入店しました。この頃は藤丸・長崎屋・中心部商店街が相乗効果で活気を帯びていました。1875年(昭和50年)西3条南9丁目にイトーヨーカー堂がオープンし、人の流れがヨーカ堂と藤丸を結ぶ通りに集中するようになり、広小路への流れが少なくなりました。
 そして、1979年(昭和54年)郊外地区としてニチイ帯広店(現ポスフール)がオープンし、大型店の郊外出店や、ロードサイドショップが急速に増え、車社会に拍車をかけることになりました。
 平成12年は、帯広市の人口が175,000人というピーク時で、これ以降毎年人口が減り続けることになります。一方、大型店が次々と出店し、「人口は減る、販売面積は増える、小規模小売店は疲弊する、子供には自信を持って店を継がせられない、後継者がいなくなる、廃業する」という流れで、お店が減ってきています。特に八百屋、魚屋、肉屋などの生鮮食料品店が激減し、帯広の台所と言われた中心部の見る影もありません。帯広市中心部の空洞化は進み続けており、大変心配な状況です。
 全国的な少子高齢化問題は大きく取り上げられいる現在、消費不振による大手スーパーの撤退が各地で波紋を広げています。出店攻勢をかけてきた大手のイオンやヨーカ堂も閉鎖や業態転換など検討する事態を迎えています。少子高齢化は自動車業界にも大きな影響を及ぼし、販売台数が減少していくなど、車中心社会から車離れになって行くことも予想されてます。
 中心街や郊外の商店街の小売店が減少し、郊外大型店も閉店するようなことになったら、車を乗れなくなった高齢者は、どこで買い物をすればよいのでしょうか?
 バス路線も廃止され、歩いて遠くの街まで買い物に行かなければならない高齢者が住む地域もあるそうです。
 青森市では、商業施設だけではなく、公共施設や住宅、病院などを1ヶ所に集中させる「コンパクトシティー」へ、富山市では、中心街の公共交通を充実させて車に頼らないまちづくりを目指しています。
 さて帯広では?
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2009年05月26日

タウンスケープ、歩きたくなる街並み その3

 碁盤の目のような単調な区画割りの街にとって、廉売やマーケットのように街区の中央部分を利用する方法は魅力アップの一つになります。通りからは見えない隠れた空間に何があるのか、ちょっとワクワク感をおぼえませんか?
 昔は10本以上のマーケット通りがあったそうですが、現在は、西2条南10丁目のマルヒロセンター(うまいもん通り)、西2条南8丁目藤丸向かい側の銀座センター、西1条南9丁目シネとかちピリンス劇場のあるプリンスストアー、その隣のマルマン商業協同組合しか残っていません。飲食街では西1条南8丁目近辺に八丁堀、新世界通り、いなり小路、金春街などがありますが・・・。
 今、全国的に有名な「北の屋台」は一条市場という廉売で野菜、肉、魚、惣菜などのお店が並び帯広の台所として一番賑わっていた場所でした。
 昭和61年頃(1986)、商店街魅力づくり会議が広小路・大通商店街の活性化パイロットプランを提案しました。そのコンセプトは、「大動脈に毛細血管を接合させよう」で、「大きな流れだけでは人はよどまないし、街に栄養は行き渡らない」という考え方を元に広小路の再開発計画が示されました。
 その内容は、「路地裏にポケット・スクエアを造成する」「伝統的建物のリフォーム」「中城ふみ子句碑の建設」「パーキングメーターの設置」「自転車への配慮」「通りに緑を」「福祉的配慮(バリアフリー)」などが盛り込まれています。
 
 
 この提案が、その後平成3年に策定された「商業近代化地域計画 ローリング事業」に繋がっていきます。
 メインストリートからちょっと抜け道のような細街路に足を踏み入れると、そこはまるで違った空間が広がっている。こんな情景があれば楽しいとは思いませんか?歩きたくなりますよね!
 こんな計画が検討されていた頃は、ちょうど土地バブルの絶頂期で、既存の建物を一部壊したり、土地を貸したり、提供するという雰囲気にならず、夢物語になってしましました。
 ずいぶん昔から、今日のような中心部空洞化を想定していて、その解決策として素晴らしい未来の計画がなされ、報告書という形で提案されていますが、そこで終わってしまっています。
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2009年05月25日

タウンスケープ、歩きたくなる街並み その2

 帯広の街は京都のように碁盤の目のようになっていてきれいな街だねと言われますが、京都とは全くたたずまいが違います。同じ碁盤状でも細い道が入り組んでいたり、とにかく歴史が違います。
 帯広は道路幅が広く、火防線と呼ばれる斜めの道路を配置し、災害に強い区画として街を形成し、行政主導で作られたようです。歴史的にも明治24年頃(1891)下帯広村を起点として十勝原野の区画が始まってから、まだ120年ほどの歴史しかありません。
 明治25年(1892)、今の柏葉高校付近に郵便局や帯広最初の行政機関として役場が開設され、水光園付近にあった晩成社との間に河港の街が発建し、行政的都市の誕生となったそうです。
 以来、電信通り、大通を経て、西2条通りへとまちの中心部が移っていきますが、その要因は官庁の建物の位置や駅などの交通アクセスの利便性が密接に関わっていて、人の流れや賑わいも移動していきました。
 賑わうところには、商業も発達します。商店街は電信通りや大通から始まり、やがて人の流れの変化とともに西2条通りへ、そして大通と西2条を挟むように広小路が栄えるようになります。
 広小路の道路上にはずらっと夜店が張り付き、碁盤の目の区画の間では、本通りと中通りを貫く廉売やマーケットがたくさんあり、数多くのお店が軒を並べていました。
 そして、帯広駅は広尾線、士幌線、十勝鉄道などの起点となり、農産物や木材などが集まる流通の拠点として重要な役割を担っていました。
 昭和30年頃(1955)、大勢の人が帯広にやってきて、街に人があふれ一番賑やかだった頃の風景です。決してきれいな街並みではなかったけれど、とても晴れやかでわくわくする街でした。


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2009年05月24日

タウンスケープ、歩きたくなる街並み その1

 昔、学生の頃にタウンスケープを考える授業がありました。「タウンスケープ」とは「まちなみ景観」という意味ですが、通りを歩いて行く人の目に、回りの建物がどのように見えるのか?どのような通りや建物が見て感動をおぼえるのか?歩きたくなるような街並みとはどんなものなのか?という勉強です。例えば、真っ直ぐで遠くまで一目で見通せる平坦な街並みでは、その場に立った瞬間この通りがどんな通りなのか、歩くまでもなく解ってしまいます。ずっと遠くまで歩いて行こうと思わせるためには、興味をひく建物や景観がずっと連続している必要があります。
 しかし、真っ直ぐな通りでもアップダウンのある坂道だとしたらどうでしょう。登り切った坂の下にはどんな通りが、どんな景観が見えてくるのかと期待しませんか?また、平坦な地形でも曲がりくねった通りは、先へ進まなければ次の景観が見えないので自然と歩いて行くことになります。勿論その街並みを歩くことで、人々に感動を与えるものでなければなりませんが。
 
 今、帯広市の中心街の街づくりコンセプトは「歩きたくなる街 おびひろ」です。皆さんや観光で訪れる人々にとって帯広の中心街は「歩きたい!」と思わせる街並みになっているでしょうか?
 (続く)
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2009年04月16日

まちなか居住について

 帯広もそうですが、全国的に都心回帰の傾向があり、まちなかに分譲マンションを買って暮らす人が増えてきました。特に駅周辺にマンション建設が増えています。以前にアンケート調査をしたことがありますが、その結果、「除雪の心配がない」「旅行するのに便利なので駅周辺を選んだ」「車が無くても生活できる」などの声が聞かれ、居住者年齢は高く、仕事をリタイヤした高齢の方が多いようでした。

 以前に青森市のあきんど隊隊長の加藤博さんが講演で話されていましたが、青森も高齢者向け都心部マンションが建設され、まちなか居住が進んでいます。その中の問題点として、隣近所とのつきあいが少なく、コミュニケーションがとれないので、孤独感を感じている人が増えているというそうです。
 青森でも帯広と同じように自慢の逸品事業を実施していて、その逸品体験ツアー参加者を募集し街巡りをしています (実は、帯広ではこのシステムをまねさせていただきました。
 このツアーに近隣のマンション居住の高齢者が参加してお互いに友達になるケースがあり、コミュニケーションの復活に一役買っているそうです。部屋に閉じこもってばかりは友達は出来ません。まちなかをブラブラし、人と出会うことが大切なのだと思います。
 有名な建築家で東京大学名誉教授の安藤忠雄さんという方が、あるテレビの番組で話されていましたが、「まちなかの住まいには風呂が無くてもかまわない。銭湯に行けば大きな快適な浴槽に入れるしその場での人と人の出会いがある。

 なんでも住宅の中に設備するのではなく、街そのものを自分の住居として考え、足りないところは街の機能を利用するべきではないか?そうすれば年を取っても孤独感を感じることなく人とのコミュニケーションを大切にしながら充実した生活がおくれる。」と言うことを聞き、なるほどと思いました。
 昭和の良き時代はまさにそのような社会で、近所の人とお互いに持ちつ持たれつという関係があり、極端な話ですが、玄関に鍵をかけなくても安全な街であったように思います。
 各家庭にお風呂が設備され、テレビが普及する中で映画に行くこともなくなり、コーヒーも自宅で入れて飲むようになるなど、すべてが家の中でまかなえるようになってから、隣とのつきあいが無くなり、自分を含めて周りが見えなくなりました。
 こうして社会への関心が薄まり、誰が住んでいるのか解らないようになり、街の安全が失われていったのではないでしょうか?
 人は一人では生きられない、社会との繋がりの中で生きていることをもう一度振り返って考えるべきなのではないかと最近特に感じています。 (年を取ったせいかもしれません)
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2009年04月02日

帯広市民ギャラリーがオープンしました

 3月20日帯広駅地下1階に「帯広市民ギャラリー」がオープンしました。

 内閣府から認定を受けた中心市街地活性化基本計画の中の1事業で、中心部の「買適ゾーンの形成」を目標に、時間消費型商店街の再生と賑わいのある中心市街地の実現を目指す目的で作られました。
 帯広駅地下には鉄道高架事業が完成した平成8年以来、当時パチンコ店が入居する計画があった1600uの空間があり、未利用になっていました。この場所を展覧会や美術作品などの展示会場として、帯広市民の芸術文化の振興に役立てることを目的にしています。
 まちなかでの市民の芸術発表の場として、昭和57年(1982)9月広小路の全蓋アーケードを会場に「帯広市16万人の個展」を開催したことがあります。



 その後、藤丸デパートの7階催事場などを利用して芸術発表を行っていましたが、平成18年(2006)10月藤丸8階に市民活動交流センターが開設されたことで、利用が困難な状態にありました。
 中心部は買い物だけではなく、いろいろな機能を併せ持つことで賑わいのある楽しい街が形成されます。駅南には「とかちプラザ」や「図書館」「市民文化ホール」があり、駅を通って北側には飲食店、商店街、藤丸デパート、市民活動交流センターなどがあって、その中間点である駅地下の場所はとても良い選択だと思います。
 皆さん、ぜひまちなかへ「いらっしゃい!」
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2009年03月09日

帯広市の将来人口は17万人以上に?

 帯広市では新総合計画(2010〜2019年度)の素案造りをしています。その中で、帯広市議会新総合計画特別委員会では帯広市の将来人口を17万人以上を想定することで意見が一致しました。当初、帯広市長は「人口を増やす努力は必要だが、現実として客観的に難しい状況であるとのことで数値設定をしないとされていました。
 平成12年に策定された「第5期帯広市総合計画」では10年後の平成21年には188,000人という人口を想定しましたが、平成12年の市内人口はピークで175,105人で次の年から毎年減少し、1月末現在168,968人になっています。この計画の策定時の人口動態現状として、少子高齢化をのため出生数は減少し、高齢化による死亡数は増加するなど自然動態は減少傾向にあると認識していました。人口が増えるためには、企業誘致や大学誘致などの社会動態の伸びを想定し計画されたのだと思います。しかし、現実には有効な対策が実現せず、今日を迎えています。
 人口は減り続けましたが、住宅・宅地政策は当初の想定通り推し進められ、帯広市の土地利用は広がりました。
 宅地政策は帯広市だけではなく、近隣の音更町、幕別町、芽室町でも宅地開発をして住宅地を提供しています。
 勤務先は帯広で、住まいは近隣町村という人が少なくありません。音更町では人口が増えているようです。音更は帯広よりも住みやすいのでしょうか?
 土地政策で言えば、帯広市だけの計画では意味がありません。1市3町が加わった帯広圏としての総合計画でなければなりません。人口についても帯広圏の将来人口を想定し、広域的な計画を策定する必要があるのではないでしょうか?
 広い土地を少ない人口で利用すると、社会負荷ばかりが大きくなり、サービスの低下や市税のアップなどで市民負担が広がることも予想されます。
posted by pcfact at 15:00| Comment(0) | TrackBack(0) | まちづくり | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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